2015年11月

〈20151116/河野和典〉

 仕事柄なるべく多くの写真を見るようにつとめているつもりだが、最近、いくつかの写真を見ていて、「あぁ、写真は見ているようで見てないなぁ」と実感させられることが何度かつづいた。一つは、昨年発行された『photographers' gallery press no.12』で特集された「爆心地の写真1945-1952」。松重美人の原爆投下直後の広島の写真。広島平和記念資料館へも行って見ているはずなのだが、「あぁ原爆の写真ね」と何も疑問に思わず通り過ぎていた。今回、同誌の座談会を読み、その写真が持つ意味までをも含めて、見ているようで見ていないものだ、と改めて痛感させられた。二つ目は、同じphotographers' galleryだが、こちらは増山たづ子写真展「ミナシマイのあとに」であった。キャビネサイズのプリントが狭い会場に1列に約50点ほど並べられていたが、新調されたようにピッタリと収まった木製の額がひときわ目を引いたので尋ねると、IZU PHOTO MUSEUMでの展示(増山たづ子「すべて写真になる日まで」2013年10月6日 – 2014年7月27日)をそのまま借りてきたという。所変われば品変わるであろうけれど、私は一体どこに目をつけているのかと思ってしまう。 

 そんな折、「《写真》見えるもの/見えないもの #02」展(2015年7月13日-8月1日、東京芸術大学大学美術館 陳列館)は、とても意味深長であった。 

P1_「《写真》見えるもの/見えないもの #02」展
「《写真》見えるもの/見えないもの #02」展で自作を解説する佐藤時啓

 13作家によるグループ展だが、佐藤時啓「Onagawa」の精緻でスケール豊かなパノラマ風景、鈴木理策「震える火」で表された時間の推移、Osamu James Nakagawa「Gama:闇 #003」の驚異的なプリントの立体感──には、さすがと目を見張らされたし、塚田史子「静物たち」の淡いブルーの静かな画面からは、クールで緊張感をはらんだ即興演奏が聞こえてきた。 


●「ひたすら生起することを待っている写真群」

鈴木理策写真展「水鏡」(2015年7月23日-9月5日、Gallery Koyanagi)、「意識の流れ」(2015年7月18日-9月23日、東京オペラシティアートギャラリー) 
P2_鈴木理策写真展「意識の流れ」より1
 鈴木理策写真展「意識の流れ」より「海と山のあいだ」の展示
P3_鈴木理策写真展「意識の流れ」より2
同「水鏡」の展示(手前床にあるのはヴィデオ展示) 

 デビュー当時の鈴木作品の印象は、あたかも動画(Movie)の1コマをピックアップしたような写真、それも今まさにパン(カメラを左右に動かす)寸前のコマ、あるいはまた間欠撮影によって映画的に撮影する新たな人だ、という印象があった。それが今や「水鏡」でも「意識の流れ」でも堂々と見事に静止画と動画を同時に展開して見せるようになった。そして静止画の中には動きを、あるいは動画の中には静止した場面を巧みに取り込んでいる。東京オペラシティアートギャラリーでのインタビューに応えて鈴木は、私にとっては動画も写真、つまり連続する写真なのです。」と述べている。画家のデイヴィッド・ホックニーはポラロイドを使ってプールを泳ぐ人を連続撮影して時間と空間を超越したが、鈴木理策は静止画と動画を融合させることで新たな表現力を獲得している。そしてそれは、単に見せ方だけの問題ではない。当然、撮影においても静止画が動画に、動画が静止画に影響を及ぼしていると想像される。時間の芸術と言われる写真だが、新たな局面を示しているといっても決してオーバーではないであろう。

 この記事の見出し「ひたすら生起することを待っている写真群」は、鈴木理策が2000年、第25回木村伊兵衛写真賞の受賞対象となった写真集『PILES OF TIME』(1999年、光琳社)に寄せた松田貴子の文章のタイトルである。この言葉は今でも鈴木理策の作品を表すのにもっともピッタリな言葉であると思い掲げさせていただいた。それにしても、「水鏡」の謎めいた美しさ、「海と山のあいだ」に見られる自然がデザインした重厚なたたずまいには目を見張る。 

●孤島の『童暦』

山下恒夫写真展「続 島想い」(2015年9月8日-17日、コニカミノルタプラザ ギャラリーC) 
P4_山下恒夫写真展「続島想い」
山下恒夫写真展「続 島想い」ポストカード 

 1961年東京生まれの山下恒夫が初めて沖縄を訪れたのは大学2年生、1982年というから、もう33年を数える。タイトルは「続 島想い」だが、実際は「続・続・続・・・島想い」の気持であろう。会場には8×10判のカラープリント59点が並び、案内には「今回の展示は沖縄県八重山諸島にある周囲約4kmの鳩間島と諸島最大の島西表島にありながら船で渡らなければたどり着けない陸の孤島船浮集落で2012年以降に撮影した写真です。」とある。前回この会場での展示から引き続き撮影された続編である。周囲を海に囲まれたまさに孤島の日常生活が子どもを中心にまるで日記のように語られている。しかも、作品はスッキリと、歯切れ良く、的確で、かと言ってぎらついたところはまったくなく、作者独特のやさしさに溢れている。写真の合間に掲げられた「山羊つぶしのこと」「凜太朗君のこと」「太陽君のこと」「カマイ猟のこと」という四つのエッセイも見事に写真と調和している。この作品を見てすぐ思い浮かべたのは、『童暦』である。そう山陰の植田正治が地元の子どもを中心にまとめた作品集である。山下恒夫は大柄な植田正治と違って細身だが、やさしさはそっくりである。


*今回の記事は、『nikkor club 236号』に掲載の連載エッセイ「続「写真」いま、ここに─
」を転載させていただきました。
 

〈20151116/河野和典〉

 戦後70年を迎えた2015年であるから、反省の意味も込めて、あるいは「反戦」の意志を込めて、あるいはまた「平和」への願いを込めて「戦争を記録する写真」が世の中に溢れるのはある意味とても“健全”である。いっぽうで、やはり戦争の反省から生まれた「憲法九条」などどこ吹く風と言った「安全保障関連法案」が国会で可決寸前の状況にあることは極めて“不健全”と言わざるを得ない。もう一つ、平和の象徴とも言える「オリンピック」だが、東京の「新国立競技場」の原案白紙撤回、五輪エンブレムのデザイン白紙撤回という状況は何とも情けなく、“不健全”な匂いがプンプンと立ちこめる。さらに言えば、戦後70年間ずっと米軍基地が沖縄にありつづける状況は異常であり、もう不健全を通り越して完全に“病気”である。最後に、福島の原発事故処理が遅々として進まない中、原発再稼働が成されていくのは、何をか言わんや、である。もう少し、科学的に冷静に対処できないものだろうか。

 それでは、「戦争を記録する写真」を見ていこう。


●写真の見方までも考えさせる特集号

『photographers’ gallery press no.12』─特集「爆心地の写真 1945ー1952」─

(2014年11月15日、photographers’ gallery発行、定価2,500円+税)

P-1_pg press

 この特集号で特に目を引くのは、巻頭の「写真 松重美人の5枚の写真/1945年8月6日」とそれに続く6人の出席者、倉石信乃(写真史・明治大学教授)、小原真史(映像作家・IZU PHOTO MUSEUM研究員)、白山眞理(日本カメラ博物館運営委員)、橋本一径(表象文化論)、北島敬三(写真家・photographers' gallery member)、笹岡啓子(同)による「座談会 松重美人の5枚の写真をめぐって」である。


P_2_松重1

松重美人が1945年8月6日午前11時過ぎころ撮影した1枚目の写真

P-3_松重2

松重美人が1945年8月6日午前11時過ぎころ撮影した2枚目の写真 

P-4_松重5

松重美人が1945年8月6日午後5時ころ撮影した5枚目の写真 

 松重美人(まつしげ よしと 1913-2005年)は当時32歳で、中国新聞社編集局写真部に勤務。1945年8月6日午前8時15分に広島に投下された原子爆弾により自宅で被爆するも軽傷だったため会社へ向かう途中、午前11時過ぎころ爆心地から約2.3kmの御幸橋西詰で2枚、午後2時ころ帰宅して自宅で2枚、午後5時ころ爆心地より南南東に2.4kmの御幸橋東詰(広電宇品線と皆実線の分岐点)で1枚、の合計5枚を撮影している。原爆投下直後の惨状、特に被爆者を捉えた写真はこの5枚のみで極めて貴重な記録とされている。今号の特集で特筆すべきは、「1945年から1952年のプレス・コード解除(サンフランシスコ講和条約締結)までを中心に、広島で撮影された写真をあらためて見直し、詳細に検証(略)広島での調査取材をもとにした座談会や書き下ろし論考により、写真そのものから問い直す試みでもあります。」とまえがきにあるように、ともすると何気なく通過してしまう写真を、出席者6人が、多岐に渡る観点から各自の個性豊かな発言と著述で細かく解説していることである。写真を見るということはどういうことか、その根本までをも鋭く指摘した、示唆に富む座談会となった。


●ドラマ以上にドラマチックなテレビ映像

NHKスペシャル「きのこ雲の下で何が起きていたのか」

(2015年8月6日19:30放送)

 この番組は、戦後70年特集として、上記、松重美人が8月6日に撮影した5枚の写真の中から、最初に撮影された午前11時過ぎころ爆心地から約2.3kmの御幸橋の1枚目と2枚目の写真にスポットを当てて解析している。いわば『photographers’ gallery press no.12』の続編、あるいはテレビ映像版と言えなくもないが、そこはNHK、得意とするドキュメンタリーならではの綿密な取材──当時「御幸橋」にいた3人と橋を通りかかった30人以上を突き止め発言を得たという──をもとに写真をコンピューターグラフィックスで動きのある映像にするとともに、原爆によるやけどの医学的な解明も試みていた。とても訴求力の強い仕上がりで、特に橋のたもとに到着した救護のトラックに少女が駆け寄ってよじ登ろうとした瞬間、荷台の上から軍人に「おんな子どもはだめだ!」と一喝され、少女は燃えさかる爆心地方向へ走り去って行くという場面などは、並のドラマ以上にドラマチックに構成されていた。


●〈ヒロシマ〉〈ナガサキ〉の惨状を記録

日本写真家協会「日本写真保存センター」、日本カメラ財団主催写真展

「知っていますか・・・ヒロシマ・ナガサキの原子爆弾 被爆から70年」

(2015年8月4日~8月30日、JCIIフォトサロン)

P-5_ヒロシマ・ナガサキ写真展

写真展「知っていますか・・・ヒロシマ・ナガサキの原子爆弾」被爆から70年のパンフレット 

〈ヒロシマ〉と〈ナガサキ〉の原爆投下直後の写真を一堂に見るのは初めてであった。撮影者はヒロシマが澤田敏夫、松重美人、岸田貢宜、尾糠政美、川原四儀、宮武甫、佐々木雄一郎、菊池俊吉、林重男、田子恒男、ナガサキが山端庸介、林重男で、合計11名の写真が展示された。焦土と化した両市街地をはじめ、黒こげの死体、重度のやけどの負傷者の姿は悲惨を極める。人間とはこれほどまで愚かなのだということを、見る者に突き付けいるようである。展示作品で興味深かったことは、上記『photographers’ gallery press no.12』の座談会で橋本一径と白山眞理が指摘したように、松重美人と山端庸介の撮影態度がかなり違うことである。ある意味、茫然自失の状態で醜い場面を避けてやっと5枚撮影した松重美人に対して、「百戦錬磨の報道班員で、しかも(軍の)命令で撮りに行って、100枚以上撮影した」という山端庸介。被爆者の背後から恐る恐る撮っているような松重に対して、ズバリと、あるいは被爆者の状況が良く分かるように、沈着・冷静、客観的に撮影した山端。 もちろんそれだけではなく 11名の写真は、やはり原子爆弾の恐ろしさを様ざまに捉えて、貴重な記録であった。


●〈報道写真〉のあゆみを多くの資料で紹介

戦後70年特別企画展 戦争と平和 伝えたかった日本

(2015年7月18日~2016年1月31日、IZU PHOTO MUSEUM) 
P-6_「戦争と平和」展

戦後70年特別企画展「戦争と平和 伝えたかった日本」のパンフレット 

 主催はIZU PHOTO MUSEUMと日本カメラ財団。

  名取洋之助(1910-1962年)が1933年ドイツより持ち込んだ「ルポルタージュ・フォト」を伊奈信男(1898-1978年)が「報道写真」と訳したところから日本における「報道写真」の歴史が始まる。本展は、名取が創刊した『NIPPON』(1934年)からやはり名取が編集長格を務めた『岩波写真文庫』(1950-1958年)までの〈報道写真〉のあゆみを、戦前・戦中・戦後に登場した各種グラフ雑誌、写真雑誌、写真集、海外向け広報誌、ポスター、写真など多くの資料を駆使して克明に表した歴史展である。今展を企画したのは映像作家でIZU PHOTO MUSEUM研究員の小原真史と写真史家で日本カメラ博物館運営委員の白山眞理。今展と同時に両氏共著の『戦争と平和〈報道写真〉伝えたかった日本』(2015年7月、平凡社、定価2,000円+税)も発行された。白山眞理が昨年上梓した『〈報道写真〉と戦争 一九三〇-一九六〇』(吉川弘文館)が母体になっているようだ。〈報道写真〉が戦前の大らかさから徐々に戦争に巻き込まれ戦争を鼓舞し、そして戦後また戦争から解放されて行く様子が名取洋之助を中心にした木村伊兵衛、土門拳、伊奈信男らと、原弘、山名文夫、河野鷹思、亀倉雄策ら優れたデザイナーの手によって明らかにされている。

 まだまだ「戦争を記録する写真」には紹介したい作品があるのだが、スペースが尽きた。最後に、江成常夫が今年8月2日と8月15日(終戦記念日)、出身地の相模原市で2つの写真展と講演会(「母国は遥かに遠く」と「まぼろし国・満州と戦争孤児」)を行ったこと、そして大石芳野が『大石芳野写真集 戦争は終わっても終わらない』(2015年7月30日、藤原書店、定価3,600円+税)を上梓したことを記しておきたい。 2015.0905

*この記事は、『日本写真家協会JPS会報160号』の連載エッセイ「写真×写真」〈第8回〉より転載させていただきました。 

                                  

 

〈20151030_No.102/河野和典〉

 音楽は文字通り、聞くのも、演奏するのも楽しいことなのだが、得てして楽が苦になってしまうことがある。知らぬ間に欲望が強くなって、必要以上に力が入ってしまうのだ。

「合唱団ききゅう」コンサート2014リハーサル

2014年「合唱団ききゅう」コンサートリハーサルで打ち合わせをする玉山マオ、絢一朗の両先生

(撮影・髙藤竜摂) 

 10月28日(水)、我が(私の、ではなくて私が所属する)「合唱団ききゅう」の練習に玉山絢一朗(けんいちろう)さんがやって来た。玉山絢一朗さんは、我が「合唱団ききゅう」の指揮者・玉山マオ先生のパートナー、つまりご亭主である。管楽器奏者としてプロ中のプロである。現在の肩書きは音楽アドバイザー。「合唱団ききゅう」がコンサートを開催するとか、全国大会に出場するとか、その練習の最終段階にご登場する。今回は11/7(土)の所沢中央公民館まつり、11/21(土)の2015年日本のうたごえ祭典in愛知における合唱発表会出場を控えてのことであった。 

 練習の1曲目、「群青」(作詞:福島県南相馬市立小高中学校 平成24年度卒業生(構成・小田美樹)、作曲:小田美樹、編曲:信長貴富)の冒頭、「ああ あの町で」を発声したところで早速、絢一朗先生から声が飛んだ。「なぜ不用意に漫然と声を出すの」「声を出す準備がまったくできていない」。この指摘は昨年の練習でも聞いたことである。まず息を整え、どういうポジションからどういう方向へどんな声(息)を出すのか準備しなければということだ。再度歌い「生まれて 君と出会い たくさんの思い抱いて 一緒に時間(とき)を過ごしたね」と続いたところで2回目の声が飛んだ。「ここのところはどこでブレスをするの?」、マオ先生「ここは各自カンニング・ブレスです」、絢一朗先生「それならそれでいいけれど、声を出す寸前のブレスがとても目立ってみっともない」──これは日頃、マオ先生に口をすっぱく指摘されていることである。聴く人が聴けばすぐバレるということだ。約5分と比較的長い「群青」の最後、「また 会おう 群青の町で・・・」のところ、今度はマオ先生より「強(大き)すぎず、声の幅を狭めて、下から上へではなく、上から下へ弧を描くように発声するように」と指示された。

 練習2曲目は2015年日本のうたごえ祭典in愛知でも歌う「閃光」(作詞・作曲:なかにしあかね)。2分20秒ほどの短い曲だが、スピード感あふれ、声を揃えるのが難しい曲である。軽快なピアノの前奏から「駆け抜けて行け 駆け抜けて行け」と歌い出したが、やはりすぐに絢一朗先生から止められた。「ピアノの軽快な伴奏にうまく乗っかってリズム良く歌い出すように。まだもたついている」「各パートの声がバラバラで揃っていない」「言葉がハッキリと伝わってこない。特に“行け”のところはもっと丁寧に発音するように」と。そして最後のところ「今 放たれる 光」では、「最後のクライマックスだからと言って、何で頭からそんなに力まかせに声を出すんですかね。ちっとも気持ちよく響いてこない。もっとクレッシェンドを付けるように」と指摘された。確かに、つい先日の、2015年日本のうたごえ祭典(予選)埼玉県大会ではこの曲を歌って1位通過したのだけれど、そのライブ録音を聴いて愕然としたものだ。それは声だけは大きいのだが、粗く、ささくれだったようで決して軽快な疾走感を伴った「閃光」の美しいイメージとはほど遠い音楽であったからだ。今回、絢一朗先生の指摘を受けて練習を繰り返し、粗雑さが随分と影をひそめ「閃光」のイメージがだいぶシャープに響くようになったと思われた。


2015.07.01.No.101/河野和典〉

共に生きる親子の記録

山崎弘義写真集『DIARY 母と庭の肖像 Portraits of Mother and Garden 』2015年2月、大隅書店、定価3,000円+税)と同名写真展(同年4月28日~5月4日、新宿ニコンサロン)

143618974590185448178

山崎弘義写真集『DIARY 母と庭の肖像 Portraits of Mother and Garden  

 まず、写真集の表紙に見られるプリントの量に圧倒される。写真集を開くと、冒頭に「3年間、ほぼ毎日、撮影した枚数は3600枚を越えた」とある。自然の下で暮らす人間の生の営み。時の流れは生きとし生けるものに平等であろうに、タイムキーパーのような庭の一隅を隣り合わせにすることで、人間の喜怒哀楽、そしてはかなさがひときわ滲み出てきたようである。左ページの文章といい、右ページの母と庭の写真といい、共に生きる親子の記録として感動的であり、秀逸と言わざるを得ない。また、写真集と写真展をほぼ同時に発表し対比させているが、その発表媒体としての存在価値を十二分に発揮していたように思われる。写真集は、写真展に比べてプリントの大きさにそれほどの自由度はないけれど、永遠に近い形で存在し続けるし、また写真展は、会期が終わると消えはするけれど、その見せ方によって見た人の記憶に強く働きかける。山崎作品はその両方ではっきりと威力を示していた。何より大きなプリントでは、認知症という山崎のお母さんは、とても個性的で表情豊かな女優のようであったし、自宅の庭は、名園の一隅のようであった。

見たこともないアングルと距離からの新鮮な風景

林明輝[ドローン]写真集『空飛ぶ写真機』

2015年5月、平凡社、定価3,800円+税)と同名作品展(同年5月1日~5月28日、Sony Imaging Galllery 
143618993245981637178
林明輝[ドローン]写真集『空飛ぶ写真機』 
 1839年、ダゲールが感光材と支持体によるダゲレオタイプを発明し、写真の幕が切って落とされた。それからというもの、タルボットがネガポジ法を発明したのをはじめ幾多の進展があってフィルムと印画紙の時代を迎えた。そしてこれまで電子化で数々の自動化がなされてきた。ニコンのマルチパターンに代表される多分割測光による自動露出を筆頭に、オートフォーカス、モータードライブがその代表である。そして現在のデジタル化に到達するわけだが、ここではフィルムと印画紙は撮像素子とインクジェットペーパーへと置き換えられた。カメラも周辺機器もフィルム時代よりさらに自動化が進んだ。中でも最近にわかに話題となったのが「ドローン」である。ヘリコプターを超小型化したような無人機で、遠隔操作で自在に飛び回りヘリより低空飛行が可能なので、カメラを搭載して撮影するとこれまでにない新鮮なアングルと距離からの映像が得られる。これにいち早く着目して撮影に取り組んだのが林明輝であった。自然風景を得意とする林は、これまでも数々の写真集、写真展で作品を発表しているが、今回の写真集『空飛ぶ写真機』では、風光明媚な日本全国の絶景が、新たな姿でつぎつぎと登場する。新鮮な光景に付箋を貼っていくと、由布島からの水牛車(沖縄県/八重山諸島/8月)、ツバメが舞う(宮城県/蔵王お釜/6月)、雪氷の滝壺(石川県/百四丈滝/4月)、ミツマタの群生(神奈川県/ヤビツ峠/4月)・・・またたくまに20景を超えた。見飽きない写真集である。 

自画像とも言える集大成、回顧展

上田義彦写真展「A Life with Camera」

2015年4月10日~7月26日、Gallery 916 
143618999856127034178
A Life with Camera Yoshihiko Ueda』写真展冊子
Andy Warhol, NewYork, Sep.29 1985 ©Yoshihiko Ueda / Gallery 916
143619008486995810178

Gallery 916における上田義彦写真展「A Life with Camera© Gallery 916

 シリアスフォトグラファーとして、また広告写真家として、現在のトップランナーとも言うべき上田義彦の、1980年代初頭から2014年までをまとめた集大成、回顧展である。アンディ・ウォーホル、マイルス・デイビス、ロバート・メイプルソープなど世界的に著名な人物のポートレイト、ヌード、森の樹木、風景、インドをはじめとする世界の街角のスナップ、生物の骨、貝殻、家族写真、そして映像を含む広告写真まで多岐にわたる。その縦横無尽とも言える展示──プリントサイズにおいても、カラーとモノクロームにおいても、あるいはまた絵画用額縁を含むさまざまなフレームなどにおいても──なのだが、どれも上田の個性的な眼差しを色濃く宿しているのである。これはもう、上田自身を表した自画像だと言っても良いであろう。とすれば、大小様々な絵画用額縁(特に金色の)がちょっと多いのでは、などと言ってみてもはじまらない。

 会場のGallery 9162011年、上田自らが東京・港区の倉庫を改装して創り上げたもので、天井は高く広さは600平方メートルを誇り、日本ではほかに見当たらないゴージャスなスペースだが、展示構成はご本人の吟味が行き届いてさすが見事にこの会場に収まっていた。

 なお、写真展に合わせて同名の豪華写真集(2015年4月、羽鳥書店、定価18,000円+税)も刊行された。 


「心技体」の揃った禅的作品

奈良原一高作品展「JAPANESQUE 禅」

2015年5月11日~7月4日、フォト・ギャラリー・インターナショナル) 
143619015159060116178
奈良原一高作品展「JAPANESQUE 禅」案内状より 

 展覧会の案内状と会場入口に掲げられた文章にまず、引き付けられた。「僕は総持寺における修行の光景の中で禅の空気にふれようとした。/果たして光はあるから影が生まれるのだろうか。影が光を指し示しているのかもしれない。/もし人間の存在が感じとれるとしたら、それは影のような空間にたとえることができるのかもしれない。/西欧の光学的論理からするならば映像は光による物質の描写に始まるのだが、僕にとって写真の感じ方は一気に空間と時間を読みとることから始まろうとする。/時として僕には写真を撮る行為そのものが禅に近づいてゆく道程のような気がしてくる。(奈良原一高「近くて遙かな旅」1979年より)

 そして案内状の写真は総持寺の僧侶が廊下を駆ける瞬間をその足下から撮影している。まさに言葉通りにその一瞬の、空間と時間を捉えていた。果たしてこの写真はどうやって捉えたのか? 流れた光跡からすると通常の先幕シンクロや後幕シンクロではなさそうだ。奈良原さんの助手を務められたことのあるN氏は、「オープンフラッシュではないだろうか」と教えてくれた。1970年『ジャパネスク』として発表して以来、さまざまな場面で紹介されてきた作品群だが、私にとってヴィンテージ・プリントをじっくりと見るのはたぶん、今回が初めてではなかろうか。もう、それこそまさに「心技体」の揃ったといえるような素晴らしい作品であった。 

143618959691607792178
143618963374801582178

*表紙写真は徳永克彦氏撮影のシンガポール空軍の訓練
 

*今回もまた、ニコンの機関誌『nikkor club』より私の連載を転載させていただきました。 


 

〈2015.07.04.No.100/河野和典〉 

P-1_木之下晃写真展会場_20120214

ありし日の木之下晃さん(写真展「最後のマリア・カラス」の会場・銀座写真弘社にて、2012年2月14日) 
 

「木之下晃 お別れの会」

 2015(平成27)年4月24日午後2時から4時まで、東京・赤坂のサントリーホール ブルーローズ(小ホール)において、去る1月12日、虚血性心不全で亡くなった木之下晃さんの「木之下晃 お別れの会」が催された。

P-2_献杯

献杯の音頭をとるのは大原哲夫さん

P-3_追悼冊子

追悼冊子『音楽写真家 木之下晃 たいせつな出会い』 

 会場は写真界、音楽界でつき合いのあった人たちが集い一杯となった。若い女性司会者のさっぱりとしたすがすがしい声が響く。なんとそれは木之下晃さんの次女でフリーアナウンサーの貴子さんであった。この日のためにまとめられた木之下さん思い出の映像が映し出される。出会いと発見を大切にされた木之下さんならではの貴重なシーンがつぎつぎとつづく。弔辞を日本写真家協会会長の田沼武能さん、そして木之下さんの母校・日本福祉大学理事長の丸山悟さんが述べられた。献杯のあいさつは、写真集はじめ多くの木之下作品に関わってこられた元小学館編集者の大原哲夫さんである。そのあとは閉会までの時間、多くの参列者の思い出話がロビーにこだました。

 最後に、来場者へ記念品として追悼冊子『音楽写真家 木之下晃 たいせつな出会い』が手渡された。

P-4_木之下晃「テレビ・スター」

『日本カメラ』1971年5月号に掲載された木之下晃「テレビ・スター」

「テレビ・スター」にはじまる私の思い出

 1970年、日本カメラ社へ入社した私にとって、木之下晃さんの思い出と言えば、1971年『日本カメラ』5月号口絵に掲載された5ページのカラー作品「テレビ・スター」に始まる。作者の言葉によれば「ここに提示した5点のフィルムは、『テレビ・スター』の顔を、単なる顔だけのものとして写しとどめるのではなく、スターという作られた虚像が存在していることを見せようと、試みたものなのである。」という。この作品は、その意味でドキュメンタリーなのである。テレビ画面を捉えた作品には、過去にも有名写真家の作品が多くあるが、この作品は添景としてのテレビではなくて、テレビそのものが持つ虚像に迫る新鮮な切り口が印象に残る作品であった。そしてこの作品を含む写真集『音楽家─音と人との対話』(自費出版)が’71年日本写真協会賞新人賞に輝くのである。別項「木之下晃の足跡」にあるように、初期の木之下作品は、やはり自費出版の写真集『FOLK SONG ’69』をはじめジャズやロックシーンをも盛んに撮影する間口の広い写真家のものであった。クラシック音楽に特化していくのは70年代後半からである。特に大きな注目を浴びることとなったのが’81年出版の『SEIJI OZAWA─小澤征爾の世界』と『カラヤン HERBERT VON KARAJAN』の2冊の写真集からであろう。

 1976年『日本カメラ』の編集長が梶原髙男さんになってから木之下さんは、ちょくちょく編集部へ顔を見せられるようになった。木之下さんのクラシック音楽への並々ならぬ情熱が作品に乗り移ったかのように、グッと木之下さんの視界が開かれたように思われた。木之下さんの代表作の一点として有名な、ピアノの黒い鍵盤が長いまつげとなったアルフレッド・ブレンデルの演奏の決定的瞬間をはじめ、小澤征爾やカラヤンなどの傑作がつぎつぎと登場することとなる。音楽に目のない私にとっては、その持ち込まれる作品を傍らから拝見するのがとても楽しみであった。 


ホールに撮影用窓を設けてもらう執念の記録

 いうまでもなく写真の最大の特性は記録性である。しかし記録とはいえ、ただ漫然と写したのでは時間と共に人の記憶から消え、さらには記録したメディアからも、いやメディアごと消えていくだろう。最終的には遺そうという人間の意志にかかっているからである。木之下晃さんは第一級のスポーツ選手と同様に、その並外れた集中力から発するショットによって音楽の一瞬を写し止める。誰とはなしに音楽家からは「木之下晃の写真からは音が聞こえる」と言われるようになった。そしてさらなる瞬間を求めて、新たな音楽ホールには撮影用の覗き窓を設けてもらい、東京文化会館などの覗き窓は撮影用に改良してもらうよう働きかけた。これによって文化会館をはじめサントリーホール、池袋芸術劇場、オーチャードホール、みなとみらいホール、ミューザ川崎シンフォニーホールなどは堂々と撮影できるようになったのだ。


吉田秀和さんの思い出

 1990年水戸芸術館がオープンし、写真展も何回か企画開催され、あるとき若い女性写真家数名の合同展のオープニングに出向いたところ、なんと音楽評論家の吉田秀和さんと奥さんのクラフト・バルバラさんがパーティ会場のソファに並んで座られているではないか。吉田さんは水戸芸術館の初代館長に就任されていたのである。大学1年のとき私は一般教養で音楽を選んだところ吉田秀和さんが講師だったので、おそるおそる挨拶をすると、気さくに音楽と写真の話に応じていただいた。そして最後に、「木之下晃さんの写真はとてもいいですね」と言われたのである。後日、それを木之下さんへ伝えると、一気に顔がほころび(と言っても電話であったが)「実はコンサートの後、鎌倉まで帰る車に、『木之下さん一緒に乗っていかない?』と声をかけられて、横浜までご一緒させていただいたことが何度もあったんだけど、それはそれは緊張しながらも楽しかったですよ」と話されたことを思い出す。吉田さんの評論活動にたいしては、分野を超えて敬愛される方が大勢いるが、木之下さんは音楽を超えて人間的に吉田さんを尊敬されているようであった。今頃、あちらでまたお二人は、音楽談義をされているのではないだろうか。 


「木之下晃の足跡」
(追悼冊子『音楽写真家 木之下晃 たいせつな出会い』より)

1936年長野県生まれ。長野県諏訪清陵高校、日本福祉大学で学。中日新聞社、博報堂を経てフリーとなり、1960年代から現在まで一貫して『音楽を撮る』をテーマに撮影、フィルムでの撮影・現像に最後までこだわり続け、生涯に撮影したフィルムは3万本に及ぶ。その写真については「音楽が聴こえる」と、ヘルベルト・フォン・カラヤン、レナード・バーンスタインなど音楽関係者から高い評価を得ていた。2015年1月12日、虚血性心不全のため死去。享年78歳。

写真集

’69年『FOLK SONG '69』(自費出版)、’70年『音楽家─音と人との対話』(自費出版)、’81年『SEIJI OZAWA─小澤征爾の世界』(講談社)、同年『カラヤン HERBERT VON KARAJAN』(TBSブリタニカ)、’’84~85年『世界の音楽家・全3巻』(小学館)、’87年『アメリカの音楽地図』(新潮社)、’88年『小澤征爾とその仲間たち』(音楽之友社)、’89年『ワーグナーへの旅』(新潮社)、’91年『プラハの春』(音楽之友社)、’91年『モーツァルトへの旅』(新潮社)、’91年『小澤征爾とその仲間たちPart2』(音楽之友社)、’91年『MY MOZART』(小学館)、’92年『巨匠カラヤン』(朝日新聞社)、’92年『モスクワの夏』(音楽之友社)、’93年『Bravo!』(Fenice 2000 s.r.l. Milano, Italy)、’94年『これだけは見ておきたいオペラ』(新潮社)、’94年『朝比奈隆』(増進会出版社)、’95年『小澤征爾とサイトウ・キネン・オーケストラ』(音楽之友社)、’96年『off stage』(東京書籍)、’96年『渡邊暁雄』(音楽之友社)、’96年『朝比奈隆』(音楽之友社)、’96年『ベートーヴェンへの旅』(新潮社)、’98年『音楽家』(JCIIフォトサロン)、’02年『朝比奈隆 円熟の80代』(音楽之友社)、’02年『朝比奈隆─長生きこそ最高の芸術』(新潮社)、’04年『カルロス・クライバー』(アルファベータ)、’05年『武満徹を撮る』(小学館)、’06年『マエストロ─世界の音楽家』(小学館)、’06年『ヴェルディへの旅』(実業之日本社)、’06年『日本の演奏家』(JCIIフォトサロン)、’07年『MARTHA ARGERICH』(ショパン)、’08年『オペラ極楽ツアー』(朝日新聞出版)、’08年『José Carreras』(ビザビジョン)、’09年『青春の音楽─PMF Sapporo』(北海道新聞社)、’08年『MAESTROS─音楽の決定的瞬間』(ミューザ川崎シンフォニーホール)、’08年『石を聞く肖像』(飛鳥新社)、’11年『音楽の殿堂─響きあう感動50年 東京文化会館ものがたり』(東京新聞)、’12年『最後のマリア・カラス』(響文社)、’13年『ヤンソンとムーミンのアトリエ』(講談社)、’14年『栄光のレナード・バーンスタイン』(響文社)

受賞

’71年日本写真協会賞新人賞(写真集『音楽家─音と人との対話』)、’73年第25回全国カレンダー展・印刷時報社賞(MUSIC FOR LIVING PROCESS 全音楽譜出版社)、’75年タイム・ライフ世界年鑑新人部門ノミネート(一連の音楽映像写真)、’78年鳥井音楽賞(現サントリー音楽賞)ノミネート(個展「或る作曲家の日鈔─小倉朗の世界」)、’82年サントリー音楽賞ノミネート、’85年第36回芸術選奨文部大臣賞、’05年日本写真協会賞作家賞(一連のクラシック音楽の写真に対して)、’06年紺綬褒章、’08年第18回新日鉄音楽賞・特別賞(クラシック音楽界を写真で側面から支えた功績)、’08年第60回全国カレンダー展・日本印刷新聞社賞(ゼンオン・オペラハウス・カレンダー)、’09年第61回全国カレンダー展・全国中小企業団体中央会会長賞(ゼンオン・オペラハウス・カレンダー)。 

P−5_木之下+武満

「木之下晃の足跡」の写真集リストを見ても分かるように、ヘルベルト・フォン・カラヤンをはじめ、レナード・バーンスタイン、小澤征爾、朝比奈隆、カルロス・クライバー、マリア・カラスなど、傑作はきりがないほどある。その中から最後に私の好みを挙げさせていただくと、写真集『木之下 晃 武満 徹を撮る』と CD『武満 徹 青春を語る』(2005年、小学館)のカップリングになる。なぜか独学で世界的な作曲家となった武満徹さんと音楽写真のパイオニアとも言える木之下晃さんは妙に相性が良いのである。ここには、木之下晃さんと武満徹さんという異分野のお二人が奏でる感性のハーモニーとでも言えるようなコラボレーションの素晴らしさがある。 

159

*今回は『日本写真家協会会報159号』の連載「写真×写真」より転載させていただきました。 
〈2015.07.04.No.100/河野和典〉 

↑このページのトップヘ