2017年10月

パリ、ニューヨーク、ニューオーリンズ、東京を撮影した11人の写真家

 私が写真にめざめて最初に「都市」──というよりこの場合は“都会”と言ったほうが適切だと思うが──を意識させられた写真は、森山大道が1年間担当した1970年『アサヒカメラ』の表紙であった。

01_森山大道表紙
          森山大道撮影の1970年8月号『アサヒカメラ』表紙
 中でも印象的だったのは、ここに掲げた8月号の表紙。黄色いミニのワンピースを着て路上をさっそうと歩く女性の後ろ姿を捉えた写真は、その斜めに傾きブレた描写の画面からは、このうえなく“いま”を感じさせる写真として、当時とても驚かされた。それは高度経済成長時代の雰囲気を醸し出す、スピーディーな都会の動きそのものであったし、ミニスカートの女王として1960年代後半から世界的に脚光を浴びていたツイッギーをも連想させ、臨場感溢れるこの写真のインパクトは強烈であった。

 森山の写真は「アレ、ブレ、ボケ」と言われたけれど、その内容は現代都市を的確にとらえ、すこぶるシャープであった。

 いま、われわれは「都市の世紀」に生きている、と言われる。都市に向かう人の流れは加速し、人口500万人以上の「メガシティー」が世界各地に生まれている。変貌する都市や人々の姿を写し続けてきた写真家は非常に多い。

 今回は、「都市を撮る写真家」としてパリ、ニューヨーク、ニューオーリンズ、東京の4都市を撮影した11人の写真家に絞って作品を紹介することとしよう。すでに森山大道は紹介したので残るは10人である。


パリのアジェとブラッサイ

 まずは、ウジェーヌ・アジェ(ATGET, Jean Eugène Auguste 1857-1927)。彼は、1839年に写真(ダゲレオタイプ)が誕生して間もなくフランス南西部ボルドー近くの町リブルヌに生まれた。1890年の初頭パリでアパートのドアに「芸術家のための資料」という看板を掲げて、「写真によるパリのコレクション」を始める。

1_ウジェーヌ・アジェ「キャバレー」
         ウジェーヌ・アジェ キャバレー「金の十字架」、サン・タンドレ・デ・ザール通り54番地 1900
 

 アジェ写真の最大の特徴は、写真の最大の特性である記録性をいかんなく発揮していること。路上で商いをする人のシリーズをはじめ、建築物のファサード(装飾された正面)、内階段の装飾などを組み立て暗箱とガラス乾板を使い、丹念に撮影した。

 生前、アジェはほとんど無名だったが、幸運なことに多くの写真は、マン・レイのアシスタントをしていたベレニス・アボット(1898-1991)らの尽力により散逸を免れた。1930年に写真集『アジェ パリの写真』が刊行され、1968年にはニューヨーク近代美術館が彼のコレクションを収蔵。19世紀の世界的な都、パリの貴重な文化の記録を保存(アーカイブ)した。

 パリを写したもう一人の写真家ブラッサイ(BRASSAÏ 1899-1984)は、本名をジュラ・ハラースというが、今橋映子著『〈パリ写真〉の世紀』(2003年、白水社)によれば、「出身地はハンガリー東部、トランシルヴァニア地方の都市ブラッショー(ブラッサイは『ブラッショーの』という意)である」。

2_ブラッサイ《夜のパリ》より「広告塔」
        ブラッサイ 霧に包まれたモリス広告塔、オブセルヴァトワール通り『夜のパリ』より 1933

3_ブラッサイ《夜のパリ》より「バル・ミュゼット」
          ブラッサイ バル・ミュゼット 1932 『夜のパリ』より
 

 作品では、都市の夜を描いた傑作写真集『夜のパリ』(1932年)が有名だが、写真集『ピカソの彫刻』(1949年)や『落書き』(1961年)など、多岐にわたる。

 しかし、私をもっとも惹き付けたのは、写真集『1930年代秘密のパリ』(1979年)である。ここでは、夜のパリの一角にある娼婦館にブラッサイが乗り込み、全裸の娼婦をつぎつぎと登場させている。

 これらの写真は、今橋の著書『ブラッサイ パリの越境者』(2007年、同)によれば、近年やらせであることが判明したそうだが、フィクションかノンフィクションかの問題よりも、見るものをその館に引きずり込むようなリアリティ溢れる描写が素晴らしい。これもまた、都市が包み込む多面性を表していると言えるであろう。


ニューヨークのファイニンガーと

ニューオーリンズのフランク

 つづいてはアメリカの対照的な2都市を撮影した、対照的な2人の写真家である。

 アメリカ東海岸の近代的な大都市、ニューヨークをとらえたアンドレアス・ファイニンガー(Andreas Feininger 1906-1999)は、パリ生まれ。1920年代にドイツの先進的な教育機関、バウハウスで建築を学び、建築家としてル・コルビュジエの事務所から巣立つ。1940年代にアメリカへ渡り、戦時情報局での写真撮影員を経て、グラフ雑誌『ライフ』のスタッフカメラマンとして活躍。ユニークな経歴の写真家である。

4b_『ファイニンガーの完全なる写真』

4_アンドレアス・ファイニンガー『NEW YORK IN THE FORTIES』

4_ファイニンガーDowntown Manhattan, 1940
         アンドレアス・ファイニンガー Downtown Manhattan am Abend, New York, 1940 
         写真集『New York in the Forties』より
 

 写真集『ファイニンガーの完全なる写真』(1969年、毎日新聞)を見ると、科学的なテクニックを駆使したシャープで様ざまな被写体の写真に驚かされる。ここに紹介の写真集『New York in the Forties』の「マンハッタンのスカイラインとブルックリン橋」では、建築家と報道写真家の見方がミックスしたようなニューヨークのビル群が巨視的にダイナミックに表現されていて、「都市」を象徴している。

 アメリカ南部の都市ニューオーリンズなどをとらえたロバート・フランク(Robert Frank 1924-)は、スイス出身で、1947年にアメリカに移住し写真家となった。1955年グッゲンハイム奨学金を受給してアメリカ中を撮影。写真集『THE AMERICANS アメリカ人』(1958年、Robert Delpire)にまとめる。


5_ロバート・フランク_『THE AMERICANS』
         STEIDOL社によって2016年復刻されたロバート・フランク写真集『THE AMERICANS』
 

 アメリカ各地の日常をスナップした写真の数々は、アメリカの多様な側面を、「ヨーロッパ人の」とても冷静な目で切り取ったもので、大きな反響を得た。多くの人間が集まる都市の一面を見事にクローズアップして、見る者に突きつける。

 今年93歳になるフランクだが、昨年11月、東京藝術大学で開催された展示を見ても、後続の、特に若者に対するカリスマ性は、いまだ衰えていないよう


東京に取り組んだ桑原甲子雄、木村伊兵衛、東松照明、高梨豊、児玉房子、石元泰博

 次は、東京を表現した6人の日本人写真家と作品を紹介しよう。

 1936年に起こった2.26事件を撮影した桑原甲子雄(1913-2007)は、木村伊兵衛よりひとまわり後輩の同郷人で、東京の下町を克明にスナップした。

7_桑原甲子雄『東京下町1930』より
        桑原甲子雄 昭和12年(1937)下谷区上野(現台東区)両大師橋 写真集『東京下町1930』より

 戦前は『アサヒカメラ』などの月例写真コンテストでアマチュア写真家として活躍し、戦後はアルスの『カメラ』誌の編集長に就任。以後、『サンケイカメラ』『カメラ芸術』などの編集長を務めた。

 木村伊兵衛(1901-1974)は、言わずと知れた東京・下谷(現台東区)の出身で、スナップの名手として戦前戦後を通じて日本を代表する写真家である。

6_木村伊兵衛『街角』より学生の町 神田 1949
          木村伊兵衛 学生の町 神田 1949 『街角』より

 ここに紹介の写真は、写真集『街角』(1981年、ニッコールクラブ)に掲載のもの。近距離からの人物スナップではなく、神田の町を俯瞰して写しためずらしい1949年の作品である。

 東松照明(1930-2012)は、名古屋市出身。戦後を代表するシリアスフォトグラファーの一人。写真集『〈11時02分〉NAGASAKI』(1966年)、『日本』(1967年)、『太陽の鉛筆』(1975年)などの傑作写真集も数多いが、晩年は「長崎マンダラ」をはじめ「沖縄マンダラ」「愛知曼荼羅」「Tokyo 曼荼羅」展と、都市の写真展を開催したのも特長的。

8_東松照明[Tokyo曼荼羅]より〈街頭テレビ〉
          東松照明 街頭テレビ 東京・新橋駅前広場 1954 [Tokyo曼荼羅]より

 ここに採り上げた「街頭テレビ 東京・新橋駅前広場」(1954)は、「Tokyo 曼荼羅」展の一枚。写真の見せ方はいうまでもなく、大胆で斬新、切り口の鋭さが見る者の目を奪う。

 高梨豊(1935-)は、東京市牛込区(現新宿区)の生まれ。日大芸術学部写真学科卒業後、八木治スタジオに就職し、かの実験精神に溢れる写真家・大辻清司に出会う。アドセンター、日本デザインセンター、そして中平卓馬、多木浩二、岡田隆彦、森山大道らとの「プロヴォーク」誌を経ながらも大辻に師事する。

9_高梨豊『東京人』より
          高梨豊 杉並区環状7号線 1965 『東京人』より

 2009年東京国立近代美術館で開催された「光のフィールドノート」に展示された「SOMETHIN' ELSE」「オツカレサマ」「東京人」「都市へ」「町」「都市のテキスト 新宿」「初國」「都の貌」「next」「地名論」「ノスタルジア」「WINDSCAPE」「囲市」「silver passin'」を通して見ると、いずれをとっても哲学的であり、実験精神に溢れている。

 児玉房子(1945-)は、和歌山市生まれ。出会いは桑沢デザイン研究所だが、高梨豊同様に大辻清司に教えを受けた一人である。代表作のひとつである写真集『千年後には、東京』(1992年、現代書館)は、大胆で行動力に富む「東京論」の写真の傑作だ。
 

10_児玉房子写真集『千年後には東京』より
          児玉房子 SHIBUYA 写真集『千年後には、東京』より

 このなかの《SHIBUYA》は、現在の「肖像権」の前に立ちすくむ若い写真家たちを吹き飛ばすようだ。

 最後に登場の石元泰博(1921-2012)は、サンフランシスコで生まれ、シカゴ・インスティテュート・オブ・デザインで写真を学び戦後の日本を代表する写真家となった。そのたぐいまれな造形力から生み出された写真集『ある日ある所』(1958年)、『シカゴ、シカゴ』(1969年)、『両界曼荼羅 東寺蔵 国宝「伝真言院両界曼荼羅の世界』(1977年)『桂離宮 空間と形』(1983年)は、いずれも傑作の誉れが高い。

11_石元泰博写真集『シブヤ、シブヤ』より
          石元泰博 写真集『シブヤ、シブヤ』より

 掲載の『シブヤ、シブヤ』(2007年、平凡社)もまた、都市に暮らす人間を凝縮、象徴化して、これまた傑作である。


故きを温ねて新しきを知る

 100年以上前の「パリのアジェ」から、21世紀に入ってからの「東京の石元泰博」まで、11人の先人の作品を目の前にして思うことは、何十年も写真に携わっていても、いまだ知っているようで知らない、見ているようでよく見ていない、多くの写真家とその作品があることに愕然とさせられたことである。

 おそらく写真上達の極意は、過去のさまざまな名作のなかにたくさん詰まっている。いまを生きる私たちは、写真の表層だけを取り替えて新しがっているが、本質的には大して進歩していないのではないか。いや、退歩しているかもしれぬ、とさえ思う。何事もそうであろうが、過去の写真に目を見開き、研究することはとても大切である。

*この記事は『アサヒカメラ』2017年5月号特集「都市を撮る」より、私が担当した巻頭言「都市を撮る写真家」の一部を訂正のうえ転載させていただきました。



 この記事を書くに当たって思い出されるのが、60年代から70年代の『アサヒカメラ』の記事である。具体的に何年・何月号・何頁とは思い出せないけれど、1960年代後半から写真を志すようになった私にとって、『アサヒカメラ』の記事は、例えば「植物写真」では牧野富太郎のような植物学のオーソリティーによる記事があったり、「天体写真」であれば天文学者による科学的な記事が添えられていたりとか、単に撮影技法に留まらず視野が広く、さすが新聞社の写真雑誌と感心させられ、写真を通じて多くを学ばせていただいた。

 今回「桜」の記事を書くに当たり、「桜とは?」と言われても私にはそういった植物に関する知識は持ち合わせていないので、まずは事典の力を借りて、誰しも毎年春に目にしながら、知っているようで知らない「桜の基本」から紹介していくこととしよう。


サクラとは?

 国語事典(スーパー大辞林)には「バラ科サクラ属の落葉高木または低木。北半球の温帯と暖帯に分布し20~30種がある。日本に最も種類が多く、奈良時代から栽植され、園芸品種も多い。春、葉に先立ちまたは同時に開花。花は淡紅色ないし白色の五弁花で、八重咲きのものもある。染井吉野が代表的であるが、山桜・江戸彼岸・大島桜・八重桜も各地に植えられている」とある。
 「春が近づくにつれ、さまざまな桜が咲いていく。まだ肌寒い早春から咲き始めるのはカンザクラ(寒桜)やカンヒザクラ、それからエドヒガンである。つづいてソメイヨシノ(染井吉野)、オオシマザクラやヤマザクラ、さらに北上し北海道ではオオヤマザクラが開花していく。それぞれの地域には自慢の桜の名所があり、日本列島が春爛漫の色に染まっていく。
 次に登場してくるのが、いわゆる八重桜といわれる重弁の園芸品種・栽培品種・サトザクラ(里桜)で、日本の春をますます盛り上げてくれる。
 春は桜といわれるように、その多くは春に開花するものが多いが、なかには冬や秋などにも開花するフユザクラ(冬桜)やジュウガツザクラ(十月桜)、そしてフダンザクラ(不断桜)などもある。
 ふつう桜色というと淡いピンク色を思い浮かべるが、白いものから紅色、さらに濃い紅色のものまである」(『さくら百科』丸善) 

 桜の概要はこれくらいにして、本題の桜の写真に移ろう。

 これまで桜を捉えた多くの写真作品は、桜そのものを主題あるいはテーマとした作品と、写真集や写真展などで作品の一部に桜を取り込んだものに大別されるのではないだろうか。

 いずれにしても、桜は多くの写真家にとって、というよりカメラを持ったことのある人にとっては、カメラを向けたくなる題材のナンバーワンとして富士山と双璧と言えるのではないだろうか。もっと言えば、カメラを持とうが持つまいが、人をうっとりと、とりこにして余りある美しい魅力をたたえた花であることに間違いはない。その証拠に写真はもちろん、絵画、音楽、文学においても数限りなく登場する桜である。


桜をテーマにした作品

 桜をテーマにした写真集あるいは写真展には、ぱっと気づいただけでも、日本を象徴する花として格調高く捉えた一村哲也写真集『さくら花』(1992年、日本カメラ社)、ユニークな実験的試みを駆使するコンセプチュアルフォトで今や名高い山崎博の二つの写真展──超望遠(4700ミリF90)でクローズアップした「櫻」(1990年、ツァイト・フォト・サロン)と、ストロボとNDフィルターとフィルムカメラを使ってのアウトドアでのフォトグラム「櫻花図」(2001年、銀座ニコンサロン、第26回伊奈信男賞)、対照的にオーソドックスなネイチャーフォトグラファーの鈴木一雄写真集『櫻の聲』(2010年、日本写真企画)、とてもカラフルな写真が特長的な蜷川実花写真集『桜』(2011年、河出書房新社)などがある。この特集でも活躍する五島健司の夜桜写真集『桜酔い』(2001年、そしえて)、森田敏隆写真集『一本桜 百めぐり』(2004年、講談社)もある。

 そんな中で、私が代表的な桜として挙げたいのが、次の3氏の桜をテーマにした作品である。

 竹内敏信(1943年-)は、1972年頃までは写真展「汚染海域─伊勢湾からの報告」(ニコンサロン)に見られるようにドキュメンタリー写真家であったが、1974年頃から180度方向転換し、風景写真家となった。ここからは、まるで水を得た魚の如く邁進する。竹内はそれまでの風景写真家が主に使用していた大型カメラから35ミリ一眼レフに持ち替えて、交換レンズを駆使、アングル、フレーミングなどでもこれまでになく機動性を発揮して、革新的な風景写真家として一世風靡することとなる。

竹内敏信写真集『櫻』

 桜の写真集も『櫻』(1992年、世界文化社)、『山櫻』(1998年、出版芸術社)、『櫻暦』(1999年、出版芸術社)、『一本櫻百本』(2006年、出版芸術社)、と4冊にのぼる。

東松照明「さくら」福島・会津 1982
          東松照明 さくら 福島・会津 1982([Tokyo 曼荼羅]展カタログより)


 東松照明(1930-2012年)は、言わずと知れた日本を代表するシリアスフォトグラファー、社会派である。その彼が描いた写真集『さくら桜サクラ』(1990年、ブレーンセンター)は、文字通りと言おうか、当然と言おうか、単純に桜の美を追究したものではなくて、言わばあるがままの多様な桜を多様な情況のもとに描いて、桜を通して日本を描いた作品と言ってもよいであろう。ほかの桜とはハッキリと一線を画す。

 三好耕三(1947年-)は、大型カメラ8×10とモノクロームフィルムを駆使する写真家である。8×10に関しては、とっさに組み立てて瞬時に手持ちで人物スナップをこなす名手でもある。発表された2作品「櫻」(2003年)と「SAKURA 櫻覧」(2009年)は、いずれもフォト・ギャラリー・インターナショナル(P.G.I)での写真展。

三好耕三「櫻」展案内状より
     

          三好耕三「櫻」(2003年) P.G.I.作品展案内 


 櫻覧では16×20インチのカメラも使われている。モノクロームの桜の描写も新鮮だが、細かな花びら一つ一つの克明な描写には、ともかく目を見張らされる。

 以上、桜をタイトルに冠した写真集・写真展を私なりに見てきたが、もしや桜の写真は桜に限らない風景やスナップ集にもあろうかと、一転、わが家の蔵書(と言っても家庭用の本棚3つに収まった写真集)に目をやると、出てくる出てくる、さすが桜だ、と思い知らされる。以下、何点かをピックアップしよう。


桜を取り込んだ写真集

 まずは、植田正治の代表作『童暦』(1971年、中央公論社)を挙げよう。

植田正治写真集『童暦』より

 この作品集は春夏秋冬で構成されていて、1ページ目の「春」に桜の花束を手にする下駄を履いた学生服姿の少年が登場して、数ある桜の写真の中でもひときわ印象深い。
土田ヒロミ『新・砂を数える』

 一転、土田ヒロミ『新・砂を数える』(2005年、冬青社)は、1976-1989年のモノクロームの「砂を数える」と1995-2004年のカラー「新・砂を数える」を合わせた豪華本。花見に押し寄せた多くの人と共に枝垂れ桜の大木がカラフルに捉えられている。

 梅佳代『うめめ』(2006年、リトルモア)は、小ぶりながら思わず吹き出すユーモアに溢れる写真集だ。

『うめめ』

 桜は3点ほど登場するが、頭にのった花びら一枚が秀逸。若き梅佳代の自由闊達なスナップが素晴らしい。第32回木村伊兵衛写真賞受賞作。


『熊野 雪 桜』

 鈴木理策『熊野 雪 桜』展東京都写真美術館公式カタログ(2007年、淡交社)は、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」ではないけれど、この写真展の会場構成は見事で、熊野、雪、桜がどれも目に鮮やかで印象深い。
 
『はなはねに』


 小林紀晴『はなはねに』(2008年、情報センター出版局)は、米国で「9.11同時多発テロ」に遭遇しながら帰国、結婚、子供の誕生といった思いが、まるで小説を読むように展開する。淡い桜と子供が見開きで構成されている。

『かぎろひ』

 榎本敏雄『かぎろひ 陽炎[櫻・京・太夫]』(2009年、平凡社)は、モノクロームながら咲き誇る桜をはじめ京の情景を深い黒を基調にどっしりと、そして艶やか表現した秀作。

図録『旅する写真』
 

 平成21年度東京都写真美術館収蔵展「旅」の図録『旅する写真』(2009年、旅行読売出版)には、撮影者不詳だが、「桜花と人力車」(1870-90年[JAPAN]より)という手彩色を施された作品が表紙に掲載された。

『京都 さくら帖』
 

 橋本健作『京都 さくら帖』(2009年、光村推古書院)は、京都の桜の名所114ヵ所を収録したガイドブックとして秀逸。

佐藤信太郎写真集『東京│天空樹』
 

 佐藤信太郎『東京│天空樹』(2011年、青幻社)は、大判の写真集で展開するパノラマ写真は迫力満点。浅草の花見の光景もひときわ見事である。第21回林忠彦賞受賞作。

『ふるさとはれの日』
 

 齊藤亮一『ふるさとははれの日』(2015年、冬青社)は、日本各地の祭りの日のスナップ集。そのほどよい距離感から捉えられた人物像が生き生きとして素晴らしい。

 最後は、空からの桜2点。一つは自ら設計した4×5インチカメラを携えてプロペラ機から捉えられたこの道のオーソリティとも言える芥川善行の『1000feet』(1997年、セキ)。

芥川善行の写真集『100feet Yoshiyuki Akutagawa』

北海道から沖縄までの海や山を交えたフォトジェニックな風景をスケール豊かにダイナミックにそして造形的に捉えた中の「Spring has come」と題された4点の桜。A3を上まわる天地40.6cm×左右32.3cmの豪華本である。

『空飛ぶ写真機』

 もう一つは、林明輝の『空飛ぶ写真機』)2015年、平凡社)。こちらも地上からでは捉えられないドローンならではのアングルからの新鮮でダイナミックな風景。桜の作品では見開きで「サクラと花時計」などがある。


新川幸信の言葉

 最後に、1960年代から1986年に亡くなるまで『カメラ毎日』『アサヒカメラ』『日本カメラ』でカメラメカニズムライターとして活躍された新川幸信の言葉で締めくくりたいと思う。これは氏が教えていた写真クラブの1974年の記念写真集に掲載された文章の一部である。

 「写真の技術は、カメラメカニズムの進歩によって、かつての人たちに課せられたものの何分の1かに減少している。“写る”という点では、経験はもうまったく必要ない。

 しかしこのクラブの、そしてボクの考えている写真とは、そんなものではない。何を、どのように撮るか、そこに写真の作者の考え方、もっと端的には生きざまが現われるはずだ。いうならば、すべての写真は自画像でしかない。だから“写真を教える”ことはあり得ない。

 その点、このクラブは多士済々といえる。それぞれに一家言を持つウルサ方ばかりだからだ。写真に淫することさえなければ、今後の発展は大いに期待できよう」

 これが書かれた時代はやっとカメラの自動露出が完成したところである。1986年全自動35ミリ一眼レフが登場し、今やそれがデジタル時代となって、自動化もフィルム時代と比べようもないほど進化した。氏の言葉はさらに説得力を増したと言えよう。

この記事は『アサヒカメラ』2017年3月号特集「桜風景の表現を極める」より私が担当した巻頭言「桜に魅せられた写真家」を一部訂正のうえ転載させていただきました。  

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