東京都写真美術館の3階で開催された企画展「アジェのインスピレーション ひきつが
れる精神」を見に行ったのだが、地下の展示会場で「生誕100年 ユージン・スミス写真
展」が開催されていて、偶然といおうか、期せずして、両巨頭の作品を同時に堪能することとなった。今号は、両作品の魅力を私なりにまとめてみた。
ウジェーヌ・アジェ《日食の間》1912年をあしらった「アジェのインスピレーション ひきつがれる精神」展チラシ
◎「アジェのインスピレーション ひきつがれる精神」(2017年12月2日~2018年1月28
日)
アジェは、いうまでもなく19世紀末から20世紀初頭、パリの街頭とその周辺を写真で
克明にスケッチしたウジェーヌ・アジェ(Eugène Atget 1857~1927年)である。
本展カタログ巻末の写真評論家・横江文憲氏の寄稿文によれば、「ウジェーヌ・アジェが、パリとその郊外の写真を体系的に撮りはじめたのは1898年、41歳のときであり、
それから30年の間に、およそ8000枚の写真を撮影した。」とある。
これは現代のデジタル時代の写真撮影からするとたいした枚数ではないと思えるかも知れないが、19世紀末から20世紀初頭にかけての撮影機材──組み立て式暗箱という大型カメラに冠布(遮光布)をかぶってピント合わせをし、18×24センチのガラス乾板を
1枚ずつ装填し、シャッターを切る──を考えれば相当なエネルギーを要し、半端な数ではない。しかもこの18×24センチの大判ガラス乾板の解像度は、今回展示されたアジェ自身がプリントした鶏卵紙およびゼラチン塩化銀紙のオリジナル40点を見ても、あるいはまた、かのマン・レイの助手でその後アジェ作品のアーカイブに尽力したアメリカ
の写真家ベレニス・アボットによるゼラチン・シルバー・プリント20点を見ても、その
クオリティは高く、現在のデジタル時代にあっても目を見張るほどのシャープさを示している。
また、このカタログの横江氏寄稿文には、数少ないアジェの自作への貴重なコメントが紹介されている。それは1920年に自分の写真を売り込むために文部省美術局長ポール ・レオンへあてて出された手紙という。
「拝啓 私は20年以上の間、私個人の考えから、パリのすべての古い通りの写真を撮り続けてまいりました。それらは18×24センチの ガラス乾板によるもので、16世紀から19世紀までの美しい一般建築物に関する芸術的な 資料です。古い館、歴史的あるいは珍しい建物、美麗なファサード、美麗な戸口、美麗 な壁板、ドアノッカー、古い給水場、昔風の木の錬鉄製の階段、さらにパリのすべての 教会内部(全体と芸術的な細部)、例えばノートル=ダム寺院、サン=ジェルヴェ=サ ン=ブロテ教会、サン=セヴラン教会、サン=ジュリアン=ル=ボーヴル教会、サン= テチェンヌ=デュ=モン教会、サン=ロック教会、サン=ニコラ=デュ=シャルドネ教 会等々があります。/これらの芸術的資料となる膨大なコレクションは、すでに完成し ています。私は、すべての“古きパリ”を所有しているといえます。」とある。
ここにはアジェが消えゆくパリを写真で残したい、という想いが根底に滲んでいるよ うに私には読める。展示作品を見ても明らかなように、黙々といおうか淡々と、アジェ はパリとその周辺を撮影している。その外連味のない、記録に徹した強い眼差しがひときわ見る者の眼を奪う。マン・レイが購入した《日食の間、1912》を『シュルレアリス ム革命』誌の表紙に掲載するにあたってアジェは名前を入れることを拒んだというエピ ソードもある。その魅力はどこから生まれたのか? それは、消えゆくパリの魅力ある 被写体を探し出すアジェの鋭い感性はもちろんだが、ひとつひとつの被写体に三脚を立 て、カメラを組み立て、じっくりと被写体を見つめ、そこではじめて見えてくる被写体の隅々を見据えたうえで、おもむろにシャッターを切る。そうすることで、いちべつしただけでは人間の頭には正確に認識されない被写体の細部を精密にトレースして定着しているからではないか。そのストレートな眼差しのインパクトの強さは、写真が本来持って生まれた特性=記録性にほかならない。1839年、写真が誕生して以来ずっとつづけられてきた絵画主義(ピクトリアリズム)写真から決別する扉をアジェが開けたといわれるゆえんであろう。
今展を企画した鈴木佳子さん(東京都写真美術館学芸員)は、同展カタログの解説冒頭で、ジョン・シャーコフスキー(1968年ベレニス・アボットとジュリアン・レヴィが 持ち込んだアジェのコレクション〈アボット=レヴィコレクション〉を買い上げた、当 時のニューヨーク近代美術館MoMAのディレクター)のアジェを象徴する文章を紹介して いる。
「それらの写真は、まるで我々が期待したものではない。それらは、感情による影響 がまったく処理されていない。矛盾がそのままになっているのだ。それらには私心がない。つまり、甘えがない。それらは、写真家が見た以上のものはなにもない(と我々は 確かに感じる)という意味で、大胆不敵である。それらは、こうした光景が写真の中のようにはまったく見えない、と思い知らされるという意味で、完璧である。それらは、 いい水のようにクリアであり、いいパンのようにプレーンで滋味がある。」と。
今展はアジェを筆頭に、アジェに共鳴する写真家──マン・レイ、ベレニス・アボッ ト、ジャン=ルイ・アンリ・ル・セック、シャルル・マルヴィル、アルフレッド・ステ ィーグリッツ、ウォーカー・エヴァンズ、リー・フリードランダー、荒木経惟、森山大 道、深瀬昌久、清野賀子──ら11作家のプリント計158点と写真集などの資料(いずれも 東京都写真美術館コレクションという)で構成されていた。
◎「生誕100年 ユージン・スミス写真展」(2017年11月25日~2018年1月28日)
こちらはアジェより61年新しいアメリカの写真家、W(ウイリアム).ユージン・スミ
ス(W.Eugene Smith 1918~1978年)の作品展(クレビスの主催、東京都写真美術館共催)。アジェの記録写真とはまったく趣の違う、ストーリー性豊かでドラマチックな表現のドキュメンタリー写真である。スミス自身が生前ネガと作品保管を寄託したアリゾ
ナ大学クリエイティヴ写真センターの協力のもと、ヴィンテージ・プリント150点が展示
された。
写真集『ユージン・スミス』カバー裏=《アンドレア・ドリア号の生存者を待つ》、ニューヨーク、1956年
その内容は、1-「初期作品」(1934-1943年撮影11点)、2-「太平洋戦争
」(1943-1945年撮影15点)、3-「カントリー・ドクター」(1948年撮影10点)、
4-「イギリス」(1950年撮影13点)、5-「スペインの村」(1950年撮影11点)、
6-「助産婦モード」(1951年撮影9点)、7-「化学の君臨」(1952年撮影10点)、
8-「季節農場労働」(1953年撮影8点)、9-「慈悲の人(シュヴァイツァー博士)
」(1954年撮影11点)、10-「ピッツバーグ」(1955-1956年撮影12点)、11-「ロ
フトの暮らし」(1957-1960年撮影10点)、12-「日立」(1961-1962年撮影12点)
、13-「水俣」(1971-1973年撮影14点)で、いずれも1点ものの「初期作品」を除
いては、フォト・エッセイ──いわゆる組み写真の構成で編まれ、『ライフ』誌を中心
に掲載された作品がほとんどである。その構成は、いずれのドキュメンタリーをとっても無駄がなく、スキがなく、アリゾナ大学センター・フォー・クリエイティブ・フォトグラフィー主任学芸員レベッカ A.センフの「ロフトの暮らし」の解説によれば、ロフトの至るところにマイクを埋め込みそこに集まったジャズ・ミュージッシャンの演奏を録音し、そして撮影したという。そうした状況は、スミスが人一倍マニアックで完璧主義者だったことが想像させられる。ここにはアジェの撮影とは異なるものの、ひとつひとつ
のシーンを想像し、多くの時間をつぎ込んで撮影する態度は、アジェにある意味共通するだろう。スミスはフォト・ルポルタージュという言葉は使わない。いわゆる報道写真とは一線を画す。あるがままをなぞらえるのではなく、自分の写真コンセプトを築くように被写体を見つめ、考えに考えて自分の写真を編集し構成するのである。
しかし、多くの名作の中で、ユージン・スミスの名をとどろかせたのは、1955年、当時ニューヨーク近代美術館のディレクターであったエドワード・スタイケ
ンが企画した大規模な写真展「ザ・ファミリー・オブ・マン」へ寄稿したスミスの《楽園への歩み》(1946年)は、戦後の平和を希求する作品として、またこの写真展を象徴
する写真として大きな反響を得た。
私の個人的な思い出は、1970年代はじめ、ミノルタカメラが向ヶ丘遊園で開催した大撮影会にアイリーンと共にゲスト参加したときのスミスのリラックスした明るい笑顔である。
◎記録もドキュメンタリーも秀作は芸術的である
アジェを見ても、スミスを見ても、自分の持てる全精力を注ぎ込むように、コツコツ
と時間をかけて構築した作品──生前にアジェ自身がパリ市歴史図書館に売り込んだ5,5
00点、そしてマン・レイにはじまり、ベレニス・アボットとジュリアン・レヴィ、ジョ
ン・シャーコフスキーによってニューヨーク近代美術館にコレクションされた作品群、
片やスミスの作品──スミス自身とアンセル・アダムスらの持てる力を注ぎ込んでアリゾナ大学に収蔵された150点──は、まったく方向性は違うけれども、どちらも一朝一夕
には叶わない芸術的境地を示す作品群である。今展は、どちらもその素晴らしさを伝えている。元をただせば、それは両アーカイヴによる賜物である。そして写真を目指す多くの人にとって、これからも大きな道しるべとなるものである。
*この記事は、『日本写真家協会JPS会報167』写真×写真 連載15──河野和典 KOUNO Kazunori(フォトエディター) より転載させていただきました。