〈2013. 11. 11. No.71/河野和典〉 

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ライカを構える植田正治(PHOTO:池本善巳 鳥取 1979(昭和54)年) 

目白押しのイヴェント

 植田正治は、私の生まれ故郷の大大先輩である。何しろ戦前の1913年3月27日、鳥取県西伯郡境町(現境港市)に生まれ、2000年7月4日、同郷において急性心筋梗塞により87歳で亡くなった。植田正治は、今年生誕100年を迎えた。まさに20世紀と共に生きた写真家である。生涯、日本でもかなりのローカルな鳥取県境港を離れることがなかった。それでいてフランスの芸術文化勲章シュバリエを受賞(1996年)するという日本を代表する国際的な写真家であった。当然の如く生誕100年のイヴェントは目白押しである。 
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東京駅ステーションギャラリー開催の植田正治生誕100年回顧展「植田正治のつくりかた」チラシ

 すでに植田正治生誕100年記念特別展覧会「初源への視線(まなざし)」が誕生日の3月27日を挟んで3月19日(火)~ 4月14日(日)の期間に東京・代官山蔦谷書店アートフロア内ギャラリーで、植田正治の孫で現在植田正治事務所の増谷寛が企画して行われた。また、10月12日~2014年1月5日には新装なった東京駅ステーションギャラリーで植田正治生誕100年回顧展「植田正治のつくりかた」が開かれる。植田正治にとっては当ギャラリーでの展示は1993年につづき2回目である。この写真展では植田正治と米子美術館時代から長年にわたり親交があり現在、島根県立美術館学芸員の蔦谷典子と東京都写真美術館専門調査委員で植田正治との共著もある金子隆一のトークイヴェントも行われる(10月26日〈土〉18:30~20:00)。11月23日~2014年1月26日には東京都写真美術館で「植田正治とジャック・アンリ・ラルティーグ」展が開催される。これはさきの金子隆一と東京都写真美術館学芸員鈴木佳子の企画で、日仏の共に自由で優雅なアマチュアリズムの真髄を開花させた二人の写真展として開催される。さらには10月22日~11月3日、東京・目黒のギャラリーCOSMOSでは元・植田正治の助手を務め、1978年フランスのアルル国際フォトフェスティバルや1980年のドイツ・フォトキナにも同行した池本善巳の写真展「素顔の植田正治」展が開催される。

 今や植田正治の肉体は死と共に消えてしまっているけれど、彼の作品と、その作品を貫く精神は生誕100年の現在も健在である。


●口癖は「ボクはアマチュアです」

 では、植田正治の作品を貫く精神とは一体どのようなものか? それはひとことで言えば「自由」である。写真を撮るときに他人に左右されない。つまりプロフェッショナルの写真家のように専門の技術を身につけてクライアントの注文に確実に応える、という仕事ぶりではなかったということである。

 ところが、実際には実家の家業(履物屋)を継ぐべき存在であったのが、それが嫌で(本当は画家に成りたかったと言われている)1932年19歳のとき、東京のオリエンタル写真学校で写真の技術を学び、実家の脇に営業写真館「植田写真場」を開業している。境港の繁栄と共に仕事も繁盛したというから、このときは立派なプロフェッショナルの写真家であったのである。しかし、すべてにおいて新しもの好きで探求心旺盛な植田は家業をほったらかして、鳥取砂丘や郷里をバックグラウンドにして作品作りに精を出すのであった(ちょうど岡山の写真家緑川洋一が歯科医の仕事を「本日休診」として瀬戸内海の撮影に没頭したのと似ている)。

 1977年、象徴的な出来事を私は目の前で体験した。『日本カメラ』の月例フォトコンテストの審査に来社した折、ある広告制作会社から撮影の依頼電話が植田にかかってきた。そのとき植田は、「わたしはアマチュアです。ご要望には応えられません」といったんは依頼を断るのだが、「ただ、私の好きなように撮らせていただければ、お引き受けいたします」とつづけるのであった。日本を代表する写真家であった植田に対して相手は即、「ぜひ、よろしくお願い申し上げます」と答えるのであった。ここには、一般的なプロとかアマとかの議論を超えて、私には、植田が「私は作家です」と言っているように聞こえた。


●プロフェッショナルとアマチュアとは

 先日の8月26日、NHKのTV番組「プロフェッショナル」のスペシャル版で、いま日本中で話題の宮崎駿監督のアニメーション映画「風立ちぬ」の制作過程が採り上げられていた。これを観ていて思い出したのが、1970年代はじめ、『ガロ』という劇画雑誌の「赤色エレジー」で一世を風靡した林静一が東京・中野で行われたあるトークライブにあがた森魚らと出演して述べていたことである。彼が言うには「練馬区大泉学園にあった東映動画の社員募集の最後に駆け込んできたのが宮崎駿であった」という。おそらく植田正治がオリエンタル写真学校で学んだのと同様に、宮崎駿も「東映動画」でアニメーションの制作技術を学び、その後プロフェッショナルの第一歩を刻んだのではないかと想像される。宮崎駿はモンキーパンチ原作の映画「ルパン三世カリオストロの城」(1979年)で映画監督デビューしている。

 プロフェッショナルとは、専門職。写真家としても料理であったり、スポーツであったり、子供であったり、婦人科(女性)であったり、水中であったり、ネイチャーであったり(ちょっと広いが)、建築であったり、その分野での特別な注文に応える存在である。そしてその中で、作家として活動する人は、自分独自のアイディア、自身のアイデンティティで勝負する、誰も真似のできない自分自身のメッセージを発信するひとである。宮崎駿の映画で言えば原作・脚本・監督を自分で行うということと同義であろう。もちろん、植田正治も、分野は違うがそのひとりである。そのことは、かの写真家長野重一が植田正治への〈追悼のことば〉(『日本カメラ』2000年9月号)で、「植田さんはよく『僕は一介のアマチュアです」とおっしゃるけど、これは『私は作家です』という反語であって、『オレはオレだ』という意識をハッキリ持たれた、日本では数少ない個性的な写真家であったと思います。(談)」と語っている。その長野重一は『週刊サンニュース』、そして『岩波写真文庫』で名取洋之助に鍛えられ、編集者としても、写真家としても、映画のムービーカメラマンとしても(作品には羽仁進監督『充たされた生活』『彼女と彼』『アンデスの花嫁』や市川崑総監督『東京オリンピック』などがある)、はたまたTVCMフィルム(動画)の撮影者としてもプロ中のプロである。 
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茶谷老人とその娘(1940年) 
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植田正治の写真日記帖『海の星座 5月A日』(『日本カメラ』1999年7月号より) 

●「自由」を象徴させる写真

 そんな植田正治の「自由」を象徴させる写真がある。もちろん植田の名作・傑作には砂丘をバックグラウンドにした作品だけでも「茶谷老人とその娘」(1940)、「風船をもった自画像」(1948)、「パパとママとコドモたち」(1949)、『童暦』(1971)などきりがない。戦後間もない時期に鳥取砂丘で自身のファミリー写真を撮影するなどとは誰もが発想すらできないことであった。また、初めての海外、ヨーロッパで取材撮影し、植田正治の次男充がデザインした『音のない記憶』(1974年、日本カメラ社)という傑作写真集もある。

 しかし、ここに挙げる写真は植田正治が亡くなる約1年前のものである。私が6代目『日本カメラ』編集長に就任して間もない1999年5月2日(日曜日)、新型カメラのレポートの依頼で境港を訪問し、そこでたまたま植田正治の写真クラブ「サークルU」の撮影会に同行するチャンスに恵まれたのだが、このとき植田正治がある小さな港で撮影したのがここに掲載の写真である。知る人は少ないと思われるが、私にとっては「ええ!!」と思える植田正治の驚きの撮影風景であった。それは、港に打ち上げられすでに死んでしまって白くなった小さなヒトデを海面へつぎつぎと投げ入れる植田正治の姿であった。と、すぐさま、新型カメラを構えて撮影したのであった。何と、素早く、思いつくままに、自由に海面に星座を描いてみせたのであった。 

前々回(No.69)につづいて、公益社団法人日本写真家協会の会報より私の連載箇所を転載させていただいた。会員以外の方にもぜひ、読んでいただきたいからだ。会報ではモノクロームであったが、ここでは一部文章を改め、イメージも1点追加して、カラーページとしてご覧いただいた。